ミサトさんは、料理があまり得意ではない。
それなのにいつもはりきって台所に立つ。夕食はミサトさんの担当なのだ。
「よーし、よーし、よーし」と食材や調味料がそろっていることを指差し確認し、調理にとりかかる。
「まずは、三枚におろしにして…」開いた料理本をかたわらに置き、読み上げながら包丁を扱うので、そばで見ていて少しハラハラする。
ミサトさん手元を見てないとアブナイんじゃ…とやんわり口をはさむと、「アッ…!」ミサトさんの肩がビクリと震えた。「まずウロコとってからだった」
指を切ったのかと思った。ハラハラする。
流しの底に魚を置いて手で押さえながら、包丁でガリガリとウロコを掻いてゆくミサトさん。
「アッ」
またも声をあげる。今度こそ指を切ったかとハラハラしていると「シンジ君ごめんソデをまくってくれない?」
見るとあらかじめ上げていた袖が、下にさがってきていた。一方でミサトさんの手は魚の粘液に濡れている。ナルホド。
流しに手を置いたままじっとしているミサトさんの横にまわって、下がったソデをたたんで肘までまくる。
「ありがとっ」まだひっついている時にお礼を言われたので、声はほとんど耳のそばで聞こえた。耳をおさえてボクが離れると、ミサトさんはすでにがりがりとウロコ掻きを開始している。
耳元に息を吹きかける、きわどい冗談かと思ったが、そんな気はなかったらしい。
「ん、ウロコ処理一匹かんりょう」
てきぱきと次の作業に移るミサトさん。
この人と暮らしていると、何かとハラハラするのだ。
「ゴメンおまたせー!」
料理が完成したのは10時近くだった。ミサトさんが帰ってきたのが7時ごろで、そのままジャケットも脱がず台所に入ったから、三時間もかかったことになる。
いつもスミマセンいただきますと手を合わせる。
「いえいえお待たせしまして…。いただきまーす」と手を打ち合わすミサトさんの指には、結局また一枚バンソーコーが増えている。
食卓にならんだのは小鯛の塩焼きに小鯛のカルパッチョ。
レトルトでボクはかまいませんよと、いつも言おうとしていまだ言えていない。
「で、…どう? おいし?」
料理に不慣れなミサトさんだから、時間をかけて注意しながら調理したのだ。十分おいしかった。
「へっへー」どんなもんやと胸を張るミサトさん。
本当はこれ以上迷惑をかけないために、レトルトでいいと言うべきなのだろう。でも…。ん?
ミサトさんのまぶたの上で、なにかが小さく照り返った。
ボクは腰を浮かしテーブルに手をついて、ミサトさんの顔に手をのばす。
爪の先ですくうようにして取ったものに目を凝らしてよく見てみると、それは魚の乾いたウロコだった。
ウロコを掻いていた時に飛び散って付いたのだろう。ほらミサトさん目に入るトコでしたよと指先から視線をミサトさんに戻すと、
なぜかミサトさんは、目をかたく閉じて頬を染めていた。
「……ッ、…エッ?」
うす目を開いて、ボクを見る。そして指先のウロコを見る。
「あ…ナニうろこ? あーウロコね! あはっあははははーーー!!」
ハイうろこです。なぜ大爆笑。
ボクは冗談なんて言った覚えは――(きわどい冗談かと思ったが、そんな気はなかったらしい)――いまの自分の体勢をふと考えてみる。テーブルを乗り越えてミサトさんに顔を近づけ、頬に触れて、まなこに触れて……あ、あー、あははははは。
あわててイスに座りなおしたボクも、てれ隠しに笑うしかなかった。
この人と暮らしているとホント、何かとハラハラするのである。