葛城ミサトはなぜ、炉心融解の恐れのあるJAに乗りこみ、止めようとしたのか。もし何かあってもネルフは労災を出さなかったろう。もちろん日本重化学工業も。
彼女の立場はいうなれば、沈みかけた客船の一般客であったのだ。本来は乗組員に従って避難するところをそうはせず、まごつく船長にかわって指揮しだし、沈没するその時までひとり船に残った。だれも一般客である彼女に、そんなことは要求していないのに。
なるほど世の中にはたまに、危機的状況で己の命をかえりみず他者を救う者もいる。
彼女もそうした自己犠牲を発揮したか。
否。
具体的な人命の危機があったわけではない。JAはたしかにコントロールを失っていたが、ミサトが乗り込む前には、メルトダウンの“可能性”があったにすぎない。
例えるなら原子力空母の幽霊船。
放っては置けないが、戦略自衛隊に解決を要請するのが筋だ。
ならば冒険者か。
世の中には自ら危険をかって出て、生きる意義を見出す者たちがいる。
極寒の土地を踏破したり、絶壁にぶらさがったり、頂上を目指したり。
ミサトもそういう危険を糧に精神を高揚させる人物だったか。
否。
あの女はコタツでミカンを食べているほうが、より精神を高揚させる。
リーダー気質。
ふがいないJAの開発主任にイライラしたのか。
自分ならもっと円滑に指揮できるぞと、やってみせたのか。
否。
ミサトはそもそもリーダーに向いていない。おそらくそれは彼女自身わかっていることだ。
ではナゼ、葛城ミサトは命をかけてまでJAを止めようとしたのか。
むふぅー…、と鼻息をついてリツコは、向かいの座席で舟をこぐミサトをねめつけた。
よくこんなエンジンの轟音と振動のなかで寝ていられるものだ。図太い。
ネルフに帰るエヴァ搭載機に便乗しようというミサトの誘いに乗って、リツコはいま機上の人である。
機内は旅客機ではないので当然寒いし、ビリビリと小刻みに揺れ、油の臭いがし、エンジン音と風音と高度で耳がキーンとする。
リツコは乗り物酔いしていた。頭痛と吐き気がする。
それを紛らわせようと、手近な考え事をしていたのだ。
『なぜミサトはJAに乗り込んだのか?』
しかしわからない。堂々巡りの思考はリツコの吐き気を促進する。
「……」
アプローチを変えてみよう。
JAを止めることでミサトに何が訪れるか。
JA開発スタッフの感謝。土壌汚染の可能性の消去。
そして…ミサト個人の被爆の可能性。エヴァの私的運用を追求される可能性。
ダメだ。
どう考えても彼女がJAを止めるメリットはない。
しかし実際この女は、汚染物質の充満する内部に入ってみせたのだ。
ぐらぁぁり
乱気流か、機体がうねるように大きく揺れた。胃がひっくり返る。のどを熱いものがこみ上げる。
リツコは吐き気の波をやりすごすため、ギュッと目を閉じうつむいた。
「うわぁ…揺れましたねぇ」
碇シンジの声がした。
そういえば一緒に乗っていたのである。離陸してすぐ酔ったリツコはそんなこと忘れていた。
しかしそうか、碇シンジか。リツコは噛んでいた唇をうすく笑みのばす。
一番はじめ、そもそもミサトがJAに乗りこむと言い出したときにフッと浮かんだその動機。しかしまさか、そんなことはあるまいと打ち消した動機。
あまりに幼稚で、くだらなくて、ここ最近のミサトらしい動機。
玉のような冷や汗をびっしり額にうかべたリツコは、口を真一文字に結んで、答え合わせに頭をあげた。
向かいの座席にはミサトとシンジが隣り合わせに座っている。
さっきの揺れで傾いたのか、ミサトは頭をシンジの膝に乗せて、つまりシンジのひざ枕でグースカ寝ている。
うすいプラグスーツを着たままのシンジは、もじもじしてあらぬ方を向いている。
「・・・・・・ ・・・ふっ」
リツコはあわてずさわがず、座席に備え付けられた紙袋を摘み取り、説明書どおりに開封して、こらえていたモノをどっと注いだ。
『シンジにかっこいいとこ見せたかった』
それがミサトに命を張らせた動機だ。もーそれでいい。
リツコはずっしり重くなった紙袋に涙目で封をするのだった。